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禅と詫茶 [雑学]

 茶祖といわれる村田珠光が一休禅師に参禅(座禅して公安を参究すること)し、中国の圜悟克勤禅師の墨跡を大切にしていたことはご存じかもしれないが、その後の
武野 紹鴎も茶聖の千利休も本格的に参禅している。
利休などは「三十年飽参の人」といわれ、長い参究の末に古渓禅師から印可証明(お悟りの証明書)までいただいているのである。
「利休」というのは古渓禅師につけてもらい、正親町天皇から下賜された名前だが、「名利共に休す」とか「名利頓に休す」という禅語に由来しているらしい。
一言で言えば外に名誉や利益を求めない寂然たる「無事」の境地。ほかに「鋭利休歇(えいりきゅうけつ)」が根拠で、鋭利さのとれた老古錘(ろうこすい)の意味だという説もあるが、ともあれ彼等は、禅室でなく、娑婆のなかに茶室という妙用の場を設け、そこを修行の場にしたのである(老古錘は閑古錘と同義。一八六ページ参照)。
 派手なバサラ文化を背景にした大名茶などと反対の方向に進んだ詫茶の底流には、仏教の「寂(寂滅)」の思想がある。これはお悟りによって波立たなくなった静謐な心だが、これが「さび(寂)」を生み、さらには「我がさび」から「「わび」が発想されていくのである。
「数寄(すき)」というのも「空(くう)」(すき)に通じている。
 千宗旦は「茶禅同一味」という書物を残しているが、そこでも「自己の心法を観ぜしむる茶道」であることが説かれる。
またその本分を踏まえた妙用をお茶では「体用露地」と云うが、そうして言葉も宗旦は禅語からでていると言う。「露地」とは「露わになった清浄な心」。地は心のことだと、宗旦自身が定義している。だから清浄な心が露わになるべき場所が露地であり、清浄な心という本体がいかようにも現象に応じて用(作用)していくのが「体用露地」なのである。ちなみに悟りの世界、仏性そのものをお茶では「白露地」とも云う。

禅的生活
玄侑 宗久 (著)
筑摩書房 (2003/12/9)
P141

伊勢神宮 外宮 (44) (Small).JPG伊勢神宮 外宮


タグ:玄侑 宗久
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