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宗教というもの [宗教]

梅原 (住人注;蓮如は)嫁さんも何人かいるし、子どもは二十七人もある(笑)。浄土真宗を私はあの世つきの楽天主義といってます。
玄侑さんもおっしゃるとおり、宗教というものはのびのびと、人生は辛いこともあるけれども、けっこう楽しいものだということをまず説くのがいい。空海の考え方もそうです。
玄侑 密教も禅宗も、生を愛する宗教だと思いますね。
梅原猛

玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P174

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宗教とは、常に人間生活・人間精神の一番本源大宗に立ち反って全体的創造に生きようというものです。だから宗教という。
「宗」というのは本家ということだ。分家の本家だ。
科学の「科」という字は”枝”という意味の字だ。これは分かれるものを示す。
「宗教」というのは本家の教え、それから分かれた枝葉の学問が「科学」です。

安岡正篤
  運命を開く―人間学講話
 プレジデント社 (1986/11)
 P104

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P10
(一) 第一に社会的事象として宗教を見るならば、それは一つの制度とも見られるのです。 彼の本山とか末寺、檀徒、信徒、という風に組織づけられている、これらの組織の上からして宗教は一つの社会的関係を表示する現象だと見ることができる。実際、宗教は全体の社会生活を構成する一分子であるからである。~中略~
(二) 次に宗教を儀式の方面から観察することも可能である。だいたいにおいて儀式のない宗教は宗教でないといわれているごとく経文の読み方やその他衣装とか大小の儀式作法やお祭など、あらゆる儀式がそれぞれの宗教に存在している。~中略~
また寺院の建築なども一つの儀式と見られるのである。キリスト教、回教、その他の宗教と仏教の寺院建築とを比較すると、その内面的差異が直ちに建築物という外形にも顕れている。その各自の宗教的感情生活の相違が如実に形骸の中に包まれているということは宗教の特殊性を知る上にまことに便宜であり、また興味ある事でもあるのである。
(三) また宗教はこれを知的方面から観察することも可能である。いったい、われわれ人間の場合においては知性、理知というものがわれわれ人間性の根本まで食い入っているのである。したがってこれが宗教そのものの中にまでも入り込んで来ることは免れない事実なのであるから、宗教と知性とは不可分離のものだといわねばならぬのである。~中略~
(四) また宗教を道徳上から眺めることも可能である。いったい世上においては宗教と道徳とは、どちらがより根本的なものであるとか、または宗教は従であって道徳が主であるとか、またはその反対であるとか、いろいろとこの問題について多くの議論が存するのであるが、本来宗教は道徳ではないのである。しかし、またそうかといって、道徳をことごとく破壊し去ったところに宗教があるとは言えないのである。
善人が必ずしも立派な宗教家ではなく、立派な宗教家だからといって必ずしもその時代にその人が善人として通るものとも限らない。~中略~
 以上は宗教に対する観察上の四つの立場を示したものであるが、これらの四つの要素をまことに手ぎわよく科学的に化合させ抱合させてゆくとしても、それで決して宗教を成立せしめてゆくものとはならないのである。ここに今一つ大切な要素がある。そして、これこそ宗教の本体を形成する最も重要なる要素をなすものである。
自分はこの要素を宗教経験という名題のもとに説いてみる考えなのである。これが以上の四要素に加わらなければ、その化合の仕方がいかに精巧であっても、そこに宗教なるものが形成されることは不可能である。
実に宗教をして可能ならしむるものは、この個人的宗教体験であって、したがって今日ここに最も考うべき重要な眼目となっているものなのである。

P17
そんな風に宗教は、病気になったり、事業に失敗したり、その他すべてなんらかの故障に会って、そして心の平静が破れて、初めてその萌芽を見せるものであるからして、宗教というものはすべて病的であって、健康な人間には必要ないなどと言う人もあるくらいである。
しかし、これは言うまでもなく愚説であって、そうした機会なるものは単にその人の宗教的萌芽を培養する一つの肥料にしかすぎないものである。

P35
仏教というものが発生して、ここに二千五百年という今日まで伝わってきた、その命脈不断なりしその原因が何であるかといえば、そこに生命があるからである。しかもその生命はどこから来るかといえばそれこそ、いかにしても仏教徒の、すなわち仏教の生活をやっている人々のその体験とその思想というものがそれに加わって動いているからである。
そして、これが第四の因子ということを考えると、われわれは仏の教えというものをそのままにとるということは、どうしてもできなくなる。
仏の方では病人にくれる薬は一つでないけれども、われわれはむしろ、われわれがその薬を自分の病気の治るように変えて飲む。こういう風にその薬に対する態度を解釈していってよいと思う。
今までの解釈は仏を中心にして仏が病人によっていろいろの薬をくれることになったのである。けれど、今日私の解釈になるというと、仏は一つの薬をくれるのであるが、それを自分の身に合うように変えて自分は飲むのである。そこに仏教徒というものには仏教徒としての個人の力というものが加えられて来なくてはならぬものがある。

P142
いずれにしても、今日のところは個人の経験ということを主にして、お話しするのであるが、それについては、そういう個人の経験としての宗教というものは、どういう要素があるか。
これを区別すると、だいたいに、伝統的要素と、知的要素と、神秘的要素という、この三つから成り立っているという風に見たらどうかと自分は考える。
 われわれが初めて宗教経験ということをもつようになる、それまでにはどういうことがあるかというと、今日の世界では、まず伝統的に宗教というものを取り入れるのが順序になっている。
それから宗教としても伝統に頼らなければならぬという風な点もある。宗教にはどうしても伝統的なものないというといけないので、それが、制度としての宗教を伝統的要素の中に入れておいてもよい。
その個人的経験というものから見れば、制度としての宗教というものは、どうでもいいようになっているけれども、またお互いに、一人では生きて行けないので、どうしても何か他の一人ないし、多勢のものと関係して行かなければならぬのであるから、そうなれば、そこにすでに制度としての宗教、制度として発達すべき宗教の根底ができるのである。
それからまた自分だけで生きているものなら、宗教というような考えも出てこないものであるかも知れない。だから、社会的生活というものを否定して、そして個人というものだけにしたならば、宗教というものは出て来ないのだ。
そうして見ると、個人の宗教経験ということもちゃんと、その中には社会生活ということを予想しているということになる。
そこで宗教には伝統的要素というものが必要になって来るのである。われわれは子供のときに、お寺につれられて行った。今日ではキリスト教の教会に行く場合もあるであろうが、―いずれにしても、私らは親なり、なんなりにつれられて行く。自分の宗教的要求があってもなくても、とにかく、親が釣れて行く。

P153
知的というのは、これは簡単に申しますと、理屈ということになるのである。
理屈ということは、普通に「理屈を言う」という意味で、事物に説明をつけぬと、埒があかぬということになる。
何かわれわれが物をするというときに、ただやるということでなくして、それが善いことであっても、悪いことであっても、それに何かの理屈をつけるということになるのが、われわれの普通の行き方である。また人間が何かしてしまったとき、良いことのときでも、悪いことのときでも、それを言いわけにする。
良いことをしたときには、「言いわけ」をする必要がないかも知れないが、なぜ良いことをしなければならないかと、問いを出してみるのである。
これが人間の共通の性質であって、宗教の上にもその通りである。
普通に、神を信ずるとき、阿弥陀さまのお助けを願うとき、いずれもそうであります。これが人間性の普通なのであります。

P154
 昔、われわれがまだ野蛮であった時代の宗教は、どういう形をとったかというと、大抵は儀式の形であります。
何のことか訳はわからぬが、いろいろの儀式をやって、そしてそこに一種の厳粛味というか、一種の畏れというか、何かそのような気分の交じった儀式を行うのが普通である。
それがあってから、今度はそこから神を信ずるとか、あるいは仏を信ずるというようなものが出て来るものらしい。初めはただ一種の満足を得るというようなところから、今度は神というものが出て来る。
~中略~
とにかく、そういうように、何かしなければならぬのでする。する、ということが先になって、それからすることに対して、何のためにするかという疑問が出て来る、説明が出る、言いわけがくっつく。そのときが、すなわち知的要素が、宗教へはいって来る時節なのであります。

P181
先に言った伝承的、伝統的分子、知的分子、儀式的分子というようなものによって宗教が出来ているけれども、それだけでは宗教はできないので宗教に、いわゆる竜を描いてそして最後の目を点ずるのは、神秘的感情でなくてはならぬ。神秘的分子が宗教に含まれて、いわゆる宗教が生き生きとしたものになって来ると言いたい。
それであるから、この神秘ということの中には、いろいろの感情的分子もよほど含まれている。

禅とは何か
鈴木 大拙
角川書店; 改訂版 (1999/03)






P11
 ところで、人間にとって何が大問題かと言えば、それは死ぬということです。
人は何のために生きる営みをしておるのか、それは死なないためです。物質文明も、結局は死なないためです。一日も長くこの世にいたいという、人間の最終的な願いから出たものです。
~中略~
 敗戦後の三十四年間の急速な物質文明と人間の持つ弱さ、この二つが、よしあしにかかわらず、何かに頼ろうとする弱い心を生んできたわけですが、その人間の弱さということは、具体的には、そうした宗教団体に走る人々の、病気を治してもらいたいという欲求に強くあらわれています。
宗教を信ずるいろいろな崇高な理由もありましょうが、それよりもなによりも、まず自分の病気を治してもらいたいということ、ここに私は人間の弱さ、何ものかによって救われたいと願う人間の弱さを端的にみるのです。

P15
 私は宗教というものの起こりは、この死というものに対する恐怖だと思います。
つまり死をどうするか、死をいかに見るかということです。この世にはいろいろな宗団があり、それぞれに宗旨も違いましょうが、しかし結局、宗教というものの本質は、世のためになることをするということはもちろんですが、しかし同時に、あくまでもこの死と対決することにんあると私は信じております。

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ!
立花 大亀 (著)
里文出版 (2011/3/15)


自由とは、何ものをもっても抑圧すべからざるものなるがゆえに、自由なのではなかろうか。いかなる圧制の下にも自由はある。あたかも恋愛と同じように。いかなる権力も恋愛を奪うことはできない。そして自由とは本質的に孤独なものだ。自由が与えられた故に、何事でも自由に表現できると思うのは、人間の儚(はかな)い空想であろう。
私は政治的な意味で云っているのではない。宗教や芸術のごとく精神を追求する仕事においては、政治的自由の有無などは問題にならない。表現の困惑について、芸の至難について、言葉のもどかしさについて、私は悲しいほど思い迷うのである。
 何事でも自由に表現出来るか。たとえば信仰や恋愛のように、人間の最も微妙な心に属することを、我々は滞りなくあらわすことが出来るか。はっきり言いきってしまうことが可能か。 たとい言いきっても、なお万感の思いが残るのが進行や恋愛の実相であろう。我々はここで表現の不自由を感ぜざるをえないのだ。人間の限界と云ってもいい。
これを感じたところに、祈りの微妙な世界が始まる。人間の言説絶えたところに、神仏の世界がある。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P115


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