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天皇と宗教 [宗教]

 イギリスの国王はあくまでも信仰の「擁護者」なのであり、したがって神を祀るものでもなければ、まして神として祀られるものでもない。

 それに対して、わが国の天皇は、かつて特定唯一の宗教の擁護者であったことはないし、それを自称したこともない。
信仰の統一者でもなく、したがって宗教の宣布者でもなかった。

 天皇はむしろ宗教や信仰の形式や運動の埒外(らちがい)において、それらとは次元を異にする回路によって不可思議な霊威を放射し、超常的な影響力を行使してきた。
いわば天皇信仰を内側から充電してやまない宗教性の秘密は、むしろ目に見える宗教の外形的な殻や枠組みを破るところに蔵されているといってよいだろう。

山折 哲雄 (著)
天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相
日本文芸社 (2010/1/27)
P119

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天皇の宮中祭祀と日本人

 皇室は日本文化の祭祀者、日本伝統の宗家として、今も重要な位置を占めている。
起源に疑義をさしはさむなどつまらぬことだ。すでに千五百年もの長きにわたって続いてきたのだから、疑っても意味がない。まず稀有な伝統文化の粋として認めるべきである。
皇室の果たした日本の文化、伝統における役割はもはや動かし難い。

 では祭祀者として、どんなことをしているのだろうか。
日本の文化の奥深く流れるアニミズム、エコロジーの思想に、皇室は重要な役割を果たしてきた。私のように、信仰がないものにとっても、もともとこの国にあった自然への畏敬、崇拝の姿は、尊いものとして映る。本居宣長や南方熊楠に見られる皇室への崇敬は、このエコロジー、アニミズムにおける役割からきている。今でも植樹祭を含む自然保護は、皇室の重要な仕事となっている。
~中略~

 どこの国の文化も、最奥のところではその民族の信仰に根ざしている。それは体質のように変えることができない国民意識である。
仏教、キリスト教とその時々にドミナントに現れる表面の宗教は変わっても、祭祀に守られた潜在的な国民感情は変わらない。
~中略~

 政治や権力からやっと自由になった皇室が、本来的な意味で日本文化へ果たす役割がはっきりしてきた。
それを通して、日本国民の意識が高められるとすれば、歓迎すべきである。こういうものがあるというだけで、民族の心が豊かになるではないか。

寡黙なる巨人
多田 富雄 (著), 養老 孟司 (著)
集英社 (2010/7/16)
P165

 


P73
司馬 前略~
 天皇の日常は、今もそうですが、いかなる神主より神主で、神に仕える祭事がじつに多く、どんな神主より忙しいですね。

少なくとも摂関政治以後は、神もしくは神主である性格がより濃厚になった。だから、いかなる動乱の世でも京都の御所だけはおかされなかった。
~中略~
 ともかく日本史では、上代の単純な社会の頃は別として、それ以後世が複雑になるにつれて天皇は政治にタッチしておりませんね、これが日本的な、そうあるべき自然の姿だったと思います。
~中略~
 そこで明治以後の天皇制は、結局、土俗的な天皇神聖観というものの上にプロシャ風の皇帝をのっけたもので、きわめて非日本的な、人工的なものです。
そうすると日本の天皇さんが皇帝だったのは明治憲法八十年間に過ぎないわけで、ながい日本史からみれば一瞬のまです。 





P77
司馬 前略~
 明治初年の庶民は天皇さんとおいうのはお伊勢さんというのとよく似た語感で、それが政治権力の正面にすわられるということが、なんともわからなかった。
~中略~
海音寺 ~中略~
 民衆の心理にある天皇は、それ以前は非常に宗教的なものだったんですね。
神さまだから見ちゃいかん、見ると眼がつぶれると思っていたんですね。京都市民でもそう思っていたんですからね。


P75
海音寺 天皇制は、明治時代には政府はほかに見当がつかなかったんでしょう。王政復古ということを旗じるしにして徳川幕府を倒したものですから、王政復古は公約みたいなものです。履行する必要がある。
さらに適当な政体の形が当時は思いつかない。

新装版 日本歴史を点検する
海音寺 潮五郎 (著), 司馬 遼太郎 (著)
講談社; 新装版 (2007/12/14)
  





P189
 妙法院が京都の芸文の中心をなしていた時代がある。妙法院宮真仁法親王が門跡時代のことだ。
この宮は明和五年(一七八六)に閑院宮王子として生まれ、十一歳のとき妙法院に入寺し、文化二年(一八〇五)三十八歳で歿した。

~中略~

妙法院は、宮の師匠とその仲間のにぎやかな雅宴の場となり、歌、画、書のあいだに、こまやかな流通が生じた。雲上と地下のあいだの隔たりもすっかり取れて「宮さん」というものが、なじみ深い存在になった。
~中略~

 幕末の京都には血なまぐさい風が吹くが、京中の人びとの勤皇、尊王というものは、他郷からきた志士たちの思想とはちがって、雲上と地下の隔ての垣を妙法院宮が取り払ったときに実感された「宮さん」との一体感と、おそらく別のものではなかった。

その後の政治は、こういう感情を全く無視した方向に、明治の絶対王政を固めてゆく。

後略~ 

杉本秀太郎

(初出「京都新聞」昭和49年11月1日付)

P234

 さらに(住人注;泉涌寺)本坊の後ろには歴代天皇の慕陵がある。明治の神仏分離で歴代天皇の念持仏はここに移されたが、この仏像の安置されている海会堂そのものが、京都御所の御黒戸(仏間)を移したものだというから、江戸時代までの皇室と仏教の歴史的な結びつきは、もっとも自然な形でここに残っているといってもいい。

永井路子

(初出「京都御寺 泉涌寺展」朝日新聞社 昭和47年刊)

「静寂への巡礼―泉涌寺」より部分抜粋 

名文で巡る京都―国宝の寺〈1〉東山
白洲 正子
白洲 正子 (著) 大庭 みな子 (著) 杉本 秀太郎 (著)

講談社; 新装版 (2007/12/14)

  





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