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再家族化 [言葉]

 政府の在宅誘導は、家族介護への誘導です。こういう変化を介護の「再家族化」と呼んだのは、比較福祉レジーム論のエスピン=アンデルセンでした。 ~中略~
介護の社会化を「脱家族化」とも呼びますが、その変化は一方にだけ進むのではなく、「再家族化」することもあります。そして「再家族化」とは、福祉予算を削減したい国家が、どこでも採用する戦略なのです。

おひとりさまの最期
上野千鶴子 (著)
朝日新聞出版 (2015/11/6)
P61

DSC_4945 (Small).JPG企救自然歩道


タグ:上野千鶴子
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「一緒に住まない?」は悪魔のささやき? [家族]

  介護保険はもともと在宅支援が目的。それが施設志向になってしまったのは、なんといっても「利用者」が家族だからだ。家族のつごうを考えれば、テマのかかる年寄りには家から出て行ってもらいたいと思うのは人情。
同居を開始したばっかりに、家族によって施設入居を決められてしまうことになる。同居しているからこそ、出て行ってもらいたいということになれば、本末転倒ではないか。それなら最初から同居を選ばなければよかったのに、と言いたくなる。
だからこそ、「一緒に住まない?」という子どもからの申し出を、わたしは「悪魔のささやき」と呼んでいるのだ。
 ここ数年、介護保険の在宅支援サービス利用量が徐々に増える傾向にある。その理由は、夫婦世帯と単身世帯が増えたせいだ。
 こうした介護保険の利用動向をみても、在宅支援を受けたくない(つまり他人に家に入ってきてもらちたくない、したがって年寄りのほうに家からでていってもらいたい)のは家族のほう。それさえなければ、高齢者は他人に家に入ってきてもらうことをためらわない。
家族がいなければ、いや、もっとはっきり言おう、子どもさえいなければ、在宅でヘルパーさんに来てもらう敷居は高くない。

男おひとりさま道
上野 千鶴子 (著)
文藝春秋 (2012/12/4)
P167

P1000059 (Small).JPG

南禅寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%A6%85%E5%AF%BA

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リベラル・アーツ [学問]

「リベラル・アーツ」とは、日本の大学でいえば、専門過程に上がる前の1~2年生のときの教養課程での種々の講義のことだ。
 リベラルとは本来、「自由」という意味である。つまりリベラル・アーツとは、人間が自由になるための学問なのだ。
有名大学を卒業したというただの肩書きを手に入れるためにではなく、いかに大学でこのリベラル・アーツをきちんと学んだかが、これからの社会では大きな意味を持つと私は考えている。
 リベラル・アーツでは、人類が歩んできた歴史や、過去の叡智の結晶である哲学、芸術や文学、自然科学全般について勉強する。
 幅広い分野の学問領域を横断的に学ぶことにより、「物事をさまざまな角度から批判的に考える能力」「問題を発見し解決する能力」「多様な人々とコミュニケーションする能力」「深い人格と優れた身体能力」などの力を身につけることを目指す。

僕は君たちに武器を配りたい
瀧本 哲史 (著)
講談社 (2011/9/22)
P281


タグ:瀧本 哲史
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家計分離と世帯分離 [家族]

P46
 年金制度が整備されたことは、高齢者と子世代の関係を変えました。高齢者が子世代とは別のサイフを持てるようになったからです。
それまでは家族というのは家計を共同すること(つまりサイフがひとつ)が前提でした。戦前なら年寄りが家計の実権を握って離さず、公然・隠然の権力を握っていたということもありましょうが、それもまだ元気なうち、50代や60代に死ねた時代の話。 ~中略~
 家計の共同とは、この場合、子どもの家計に依存することを意味します。同居していれば子どもの家計に組みこまれ、別居していれば子どもの仕送りに頼る・・・・だからこそ頼る子どものいない高齢者ほど、みじめなものはなかったのです。それがこれまでの高齢者でした。
 それに対して、年金制度とはいわば社会的仕送り制度です。
~中略~
 年金制度はそこに、子どもから独立した親のサイフをもたらしました。子どもに対して多少なりとも大きい顔をしていられるのも、孫に小づかいをやる楽しみが味わえるのも、ふじゅうぶんとはいえ、年寄りが自分だけのサイフを持っているからこそ。 ~中略~ それどころか、いまや親の年金にパラサイト(寄生)している子世代すらいるくらいですから。

P120
 高齢者に年金が発生してから、多くの世帯では、たとえ同居していてもサイフは別、という家計分離が世帯分離に先行して定着しました。
高齢者の家計は高齢者の年金でまかなう、介護は必要になっても年金の範囲以上は使わない、というのがあたりまえになりました。いまどき親に仕送りしている子どもはめったにいませんし、世帯分離をして親に生活保護を受給してもらうケースもあります。
それどころか、親の持ち家と年金にパラサイトして、逆に親に養ってもらっている成人した子どもたちさえいます。これを高齢者への「経済的虐待」と呼びますが、親は子どもの面倒を見る責任があると考えてか、虐待されているという自覚はありません。
こういうケースでは親に寄生している子どもが自分の生活費が減ることを怖れて、要介護状態になっても介護も医療も使わない、という虐待児例が出てきます。現場で出遭う「処遇困難事例」では、いっそのこと「世帯分離」をしておひとりさまになってもらったほうがどれだけ介入しやすいか、という嘆きを、現場のケアマネージャーたちから聞きました。

おひとりさまの最期
上野千鶴子 (著)
朝日新聞出版 (2015/11/6)

DSC_4939 (Small).JPG企救自然歩道


タグ:上野千鶴子
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統帥権 [言葉]

P162
統帥権とは、軍隊の最高指揮官を表し、大日本帝国憲法の一一条に定められています。
統帥権は、天皇が持っている陸軍と海軍を指揮する権限で、具体的には、陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が直接天皇とつながって、軍隊を運用する権限のことです。  前述のように、日本軍はドイツから参謀本部というシステムを輸入しますが、そのために「軍の統帥は国家の外側、君主の体外にある」という統帥権が自己増殖し、手が付けられない国家内国家をつくり、ついには日本を崩壊させてしまった―というのです。司馬さんは「この国のかたち」で次のように語ります。
~中略~
腐敗の原因は、明治にあったのです。日本を「鬼胎」にした正体―それは、ドイツから輸入して大きく育ったもの、すなわち「統帥権」でした。
 要するに「統帥権があるぞ」と言い立てることで、軍が帝国議会や一般人を超越した存在となり、統帥権がひとり歩きをして、軍が天皇の言うことさえも聞かなくなって行くという仕組みです。軍の統帥権の実際の運用にあたっては、当然のことながら、政府と議会がチェックをする必要がありました。

P165
明治憲法下で、軍をおさえられるのは法による支配=法治ではありません。人による支配=人治をやっていた維新の功労者=明治国家のオーナーたち=元老でしたが、彼らが次々と世を去り、昭和になって、西園寺公望(きんもち※6)という元公家の老人ひとりになると、元老による軍統帥権の統制も利かなくなっていきました。
 明治国家の基本姿勢は、議会の意見は聞くが、最終決定権はない、というものです。軍の統帥に関する決定権はすべて天皇にあると軍部は主張しました。ところが、実際には、天皇自身が決められるわけではありません。軍の中枢をさく部課局が決定します。軍はその結果を天皇に上奏(報告)するだけで、天皇の意思をしばしば無視して押し切りました。
 このように統帥権は、昭和に入ると、やがてバケモノのように巨大化していきました。そして日本は迷走をはじめました。

P167
 統帥権は、天皇が軍隊を率いる権利なので、解釈次第で無限に何でもすることができました。帷幄(いあく)上奏という特権が、陸軍参謀本部、海軍軍令部という、統帥を管轄する機関に与えられます。
帷幄というのは、天皇の前に垂れている御簾(みす)=すだれのことで、帷幄上奏権は、直接天皇に会いに行って、すだれを通して意見を述べたり、相談したりする権限のことです。

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史
磯田 道史 (著)
NHK出版 (2017/5/8)

DSC_4933 (Small).JPG企救自然歩道


タグ:磯田 道史
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妄想 [言葉]

P115
 妄想を簡単に定義すると、「訂正不能の誤った考え」となりますが、自らの誤った考えが訂正できないということが問題です。
自分のことを噂されているように感じ、盗聴されているように思っても、家族や友人から「そんなことはありえない」と言われて修正できればよいのですが、どのように説明しても、その想いを立ち切れないのです。そして統合失調症の患者さんが訴える妄想内容は、自分が被害を受けているものがほとんどで、患者さんが感じる不安や恐怖は非常に強いものであると推測されます。

P118
妄想は病気の症状として現れていることであり、それを躍起になって否定しても、病気の改善が見込まれるものではないのです。そればかりか患者さんをより強い孤立に追い込んでしまうことも予想されます。
したがって妄想を否定せず、そのような病気であると受け止めて、患者さんと付き合っていくことが大切です。幻聴や妄想などの症状は、治療が適正になされ、その効果を見せ始めると、思い直すことが可能になっていくものなのです。

P174
治療には数ヶ月を要することもありますが、薬物療法が適正になされると、幻聴や妄想は消失するとともに、患者さんは過去の幻聴や妄想を見直すことができるようになります。
すると、「あの時はつらかったし、正しい判断ができず空回りしていた」、「幻聴や妄想は思い違いで、病気の症状だったんですね」といった振り返りができるようになっていきます。

精神科医はどのように話を聴くのか
藤本 修 (著
平凡社 (2010/12/11)

DSC_4936 (Small).JPG企救自然歩道


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死ぬべき時期にきちんと死なせてやるのが家族の愛情 [家族]

いのちの火が消えかかっている状態での胃瘻は、回復させることも、生活の質の改善も期待できません。のみならず、身体がいらないといっている状況下で、無理に押し込むわけですから、かなりの苦痛と負担を強いることになります。
~中略~
 胃瘻が実施される理由としては、医療者側の、できることはすべてしなければならないという使命感、また家族側の、しないと餓死させることになる、見殺しには出来ないという罪の意識があると思われます。

大往生したけりゃ医療とかかわるな
中村 仁一 (著)
幻冬舎 (2012/1/28)
P67

IMG_0008 (Small).JPG

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畳の上で死ぬのは贅沢? [医療]

   多くの人が病院で亡くなる現在、住み慣れた自宅で最期を迎える在宅死は、希望しても実現が難しい「ぜいたく」になりつつある。 かつて在宅死亡率が全国で最も高かった長野県も、近年は急落した。

大切な人をどう看取るのか――終末期医療とグリーフケア
信濃毎日新聞社文化部 (著)
岩波書店 (2010/3/31)
P100

IMG_0001 (Small).JPG平山温泉 湯の蔵

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在宅介護が第2の患者を作っている [医療]

 P8
 介護をする家族の心と体の負担がどれだけ大きくて重いか想像に難くありません。  実際に、認知症の在宅介護をしていて「介護うつ」になる人が増えています。介護をしている人の4人に1人が介護うつになっており、しかも年々増加傾向にあるという厚生労働省の発表もありました。
 家族の介護をしながら、”自分が壊れてしまう”介護者が増えているのです。

P12
認知症に限らず、在宅で介護をするにあたって何よりも重要なこと、それは「介護をするあなた自身の心体の健康を守り、大事にする」ことです。
 介護をしている人は、自分が想像する以上に大きな負担を心と体に抱えています。
日々の生活に追われ、疲れ切っていることすら気づいていない人が多いのです。介護が中心の生活になると、どうしても患者さんが1番で、自分のことは2番、3番と後回しになってしまいがち。それも状況的にある程度は致し方のないことかもしれまでんが、何もかもを後回しにしていたらあなたはあなたでなくなってしまします。
 自分の健康を後回しにして、自分が自分であることえを犠牲にして、何もかもひとりで抱え込んで耐え忍ぶような介護では、どこかに歪が出てきて当たり前です。
 そうした苦行のような介護を休みなく続けて、あなたがもし倒れてしまったら、親や連れ合いを誰が看るのか―。

認知症の人がスッと落ち着く言葉かけ
右馬埜 節子 (著)
講談社 (2016/3/23)

DSC_3284 (Small).JPG海峡花火大会

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看取り難民 [医療]

1950年代までは8~9割を占めていた自宅死を病院・診療所での死亡が逆転したのは、1977年のことだ。
以来、病院死は増加を続け2000年以降は8割近辺で推移。一方の自宅死は1割強にとどまっている。(図1)
 50年代後半から始まる高度経済成長は生産拠点での労働力の確保のために両親と子どものみという核家族を必要とし、結果的に日常生活から死を遠くに追いやっていった。
 それでも70年代あたりは都市部でもかろうじて、祖父母を家で看取る文化が残っていた―脳卒中や老衰などについては。

別冊宝島2000号「がん治療」のウソ
別冊宝島編集部 (編集)
宝島社 (2013/4/22)
P132

DSC_0919 (Small).JPG両子寺

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ワスプ・WASP [言葉]

 ワスプ・WASPは、ある程度は日本の外来語の仲間に入っているだろう。Wはホワイト、AとSはアングロ・サクソン、Pはプロテスタント。筋目のアメリカ人のことである。ワスプなどという語はいやらしい選民意識だという感覚がアメリカ社会にもあるらしく、いまでは川の本流・支流になぞらえてmainstreamといったりするそうである。

アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)
P71


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自分は、死ぬところに向かって生きている [日本(人)]

  戦国時代なり江戸時代の場合は、現代のように医学というものが発達していないから、死ぬ人が多い。

~中略~
だから当然感覚的に、
(人間はいつか死ぬものだ・・・・)
ということがわかっているわけですね。

  ところがいまは寿命が延びて、なかなか死ななくなったということは結構だけれども、
人間は死ぬということをかんがえなくなっちゃったわけだ。

池波 正太郎 (著), 柳下 要司郎 (編集)
新編 男の作法―作品対照版
サンマーク出版 (2004/05)
P232

高野山 大門

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ホスピス [医療]

   緩和ケアの考え方が、がんの早期からとり入れられるようになったとはいえ、現実問題として、がんに対する攻撃的治療をやりたい放題やった挙句、刀折れ矢尽きた果てに到達する場所が、ホスピスになっているのではないでしょうか。いわば”尻拭い施設”です。
 別に、これは、ホスピスを貶めていっているのではありません。結果的にそういう位置づけになっているのではないかといっているだけです。

大往生したけりゃ医療とかかわるな
中村 仁一 (著)
幻冬舎 (2012/1/28)
P121

IMG_0030 (Small).JPG大谷山荘

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日本で最初のホスピス [医学]

玄侑 もともと専門職としてのお医者さんがいなかった時代は、お坊さんがその役割をはたしていたわけです。浄土教が盛んだった時代、「往生要集」を著した恵心僧都源信(942~1017)という方が、比叡山のお坊さん二十五人で「二十五三昧会」というグループをつくりました。

私が思うに、その二十五三昧会が日本で最初のホスピスなのではないでしょうか。
 要するに、阿弥陀如来を信仰することで志を一つにする人たちがグループを作って、そのグループの誰かが死にそうになった時はお互いに助け合おうということです。

玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P86

-f9e54.jpg島根県安来市 清水寺6

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見えないものを信じる [ものの見方、考え方]

 

 この世の中は見えないものが真実、実在なんですよ。宇宙は見えないんです。
見えるものはほんのわずかしかない。
というのは見えるものというのは眼球が感じる波動しか見えない。ところが波動というのは無限にあるんです。

葉室 頼昭 (著)
「神道」のこころ
春秋社 (1997/10/15)
P183

2181986東大寺の鹿

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愛媛県松野町 [雑学]

P176
 戦国期に土佐兵がしばしばこのあたりを侵略した。  伊予の東南端で、土佐との国境いの町ともいうべき松丸あたりでは、いまでも古い人のあいだで、土佐人のことを、
「土佐のヤゴンス」
 といったりすることがあるらしい。
 ヤゴンスというのは山家(やまが)衆のなまったものかどうかはわからないが、語感からいえば「物知ラズ」「田舎者」という感じである。
用例をあつめてみると、ときにヤバンジンめ、といった感情もこもるらしい。愛情や滑稽感をこめることもある。
土佐人は酒量をほこる。伊予人との会合で、
「酒は何貫のみますか」
 などときく。酒で伊予人を圧倒してやろうというのだが、伊予人のほうは肚のなかで(ヤゴンスめ)とつびやく。
 憎悪のほうは戦国期にさかのぼるであろう。戦国期に、侵略してくるのはかならず農業生産のひくい土佐のほうからで、生産力の高い伊予側から押し出すということは、まずなかった。

P180
 戦国期には一条氏のあとの長曾我部氏によって伊予は土佐兵のわらじの下に蹂躙(じゅうりん)されるのだが、平和な江戸期に入ると、藩境い付近ではこの事情が逆になった。伊予は商品経済の先進性を示し、この小さな旧宇和島藩領松丸村が、他藩ながら、広大な西土佐(幡多郡)を市場にしてしまうのである。
その傾向は、中央の大企業が伊予も土佐もなしに大網にかけるようにして併呑してしまうまで、ごく最近までつづいた。

P181
松野という集落が、伊予という先進的な商品経済を背景にして藩境いでの最前線になり、「後進地帯」である西土佐を自在に市場化していたにちがいない。
 一方、土佐では、伊予者は肚が黒いというイメージが、老若男女となく固定化してしまっている。
「伊予衆と争(いさか)えば、なんじゃかんじゃと言うて結局負けてしまう」
 と、いう話も高知あたりではよくきく。

P191
この県境いの上で、藤原さんと矢野さんに別れた。松野町の習慣では、南へ去る知人を県境いまで送るという。私どものその習慣どおりに送られた。
 まるい顔の藤原さんは、右手をすこしあげて、
「お道を。―」
 と、呪文のようにつぶやいた。お道を、とは南伊予のことばで、一路平安を祈る、という意味である。この優しい習慣は、江戸期からこの街道筋で伝えてきているらしい。
~中略~
 県境をすぎると、いうまでもなく、土佐(高知県)である。道幅は林道ほどしかない。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
 


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オトウサン、オカアサン [言葉]

 余談ながら、オトウサン、オカアサンということばはこの(住人注;明治7年の小学校の)教科書、教材のなかにまだ出ていない。単に、
「親」
 として出てくる。オヤという日本語はむろん古い。
 さらにはチチ・ハハという日本語も古い。しかし父母に対する呼びかけの言葉は江戸期以前もその後も階層や地方によってまちまちであった。
 母親のことを河内の下層農民はオカンとよび、江戸の市井の人はオッカサンなどという。旗本の家庭ではチチウエ、ハハウエであり、同じ階層でも幼児はトトサマ、カカサマとよんでいたらしい。公家貴族ではオモウサマ、オタタサマであり、鳥取藩の士族家庭では母親のことをオターサンとよんでいた。
また近畿の真宗僧侶の寺族(じぞく)では、京の公家言葉をまねてオモウサン、オタタサンで、私も昭和二十年代、伊勢でげんに耳にした。真宗の寺の六、七歳の男の児がむずがって母親に、
「オタタッ」
 などと言っていた。
 明治の新政府は文明開化的な全国統一の必要からこのよび方の統一を考え、オトウサン、オカアサンという言葉を創り出したわけで、この言葉は江戸期にはどの階層、地方にもなかった。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
P81

DSC_4934 (Small).JPG企救自然歩道


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ピョートル一世 [雑学]

 ロシアは、陸つづきの西方との永い交流や交易を考えても、本来、海の国ではない。
東方においてシベリアを領有してからは、航海が大きな課題になった。
 ともかくも、ピョートル一世が、航洋船の造船と航海術の導入に力を入れるまでは、この広大な大陸国家にこの種の技術がないにひとしかったのである。
 ロシアにおけるすべては(農業や牧畜をのぞいて)ピョートルからはじまったといってよく、とりわけ、造船術の導入が大きく、次いで大砲鋳造術の導入もきわだった業績であった。
~中略~ 日本史年譜と照合すると、遠いむかしではない。江戸期日本の元禄時代のことである。
 ピョートルは当然、シベリア沿岸の海洋や未発見の陸地を知ろうとした。
 オホーツク港はいまでこそさびれた漁港にすぎないが、一六七九年、コザックによって建設されて以来、シベリア東部から外洋に出るためのもっとも重要な港とされていた。
ピョートル時代、スウェ―デンはあらゆる意味でロシアと懸絶した技術国家であったが、ピョートルはこれと戦って、技術をもった捕虜を得ると、これをオホーツク港に移し、造船をやらせたといわれている。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P105

DSC_4197 (Small).JPG手向山公園


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コサック [雑学]

 ロシア体制は、すでにのべてきたように、キプチャク汗国時代と同様、貴族と農奴という単純な二元構造でできあがっていた。モスクワ国家が強大になるにつれて、農奴制は強化された。農奴がいかにつらいものであるかを、私ども日本史の体験者が感覚的に理解することはむずかしい。
とこかくも、地主である貴族から生存だけは許され、労働をしぼりとられ、非道があれば、裁判権をもつ領主から生殺をふくめた刑をうける存在で、移動や移籍の自由もなかった。   コザックは、そこから(ときに都市からも)逃亡して辺境に住んだ人達で、定義は、前掲の原義どおり、自由な人という意味をもっている。 領主のむちと搾取から自由になった、という意味の自由だが、ねつに、ロシア体制からのがれ出た冒険的な生活者という定義も考えられるだろう。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P61

DSC_4187 (Small).JPG関門海峡

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タタールのくびき [雑学]

モンゴル軍がロシアを攻めた三十年後に日本の博多湾にやってくる(元寇)のですが、このとき鋳物の殻に火薬をつめた大型手投げ弾を鎌倉武士に対して用いました。~中略~
 当時、ロシア平原には都市ができつつありました。その代表的な都市であるモスクワはモンゴル人によって破壊しつくされ、ひとびとは虐殺されつくしました。他の都市も同様でした。キエフも瓦礫の山になりました。
モンゴル軍ははるかに西ヨーロッパにまで侵寇するのですが、やがてその内部事情により軍勢を後方にひきあげ、ロシア平原に居すわって、いわゆるキプチャク汗国(一二四三~一五〇二)をたてるのです。
それまでのロシア平原は、つねに東から西へ通過してゆく遊牧民族にあらされつづけたのですが、この十三世紀(日本史にとっても西欧史にとっても、近代への準備として大切な世紀でした)において、かれらにはじめて居すわられてしまい、帝国をつくるはめになったのです。
 以後、ロシアにおいて、
 「タタールのくびき
 といわれる暴力支配の時代が、二百五十九年のながきにわたってつづくのです。
このモンゴル人による長期支配は、被支配者であるロシア民族の性格にまで影響するほどのものでした。
十六世紀になってはじめてロシアの大平原にロシア人による国ができるのですが、その国家の作り方やありかに、キプチャック汗国が影響したところは深刻だったはずだと私は思っています。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P21

DSC_4180 (Small).JPG関門海峡


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五十の坂とか六十の峠 [人生]

 このごろ私はお墓まいりが苦労になってきて、こうまってしまう。
~中略~
 怠慢もたしかだが、からだが苦労になってきたこともいなめない。五十の坂とか六十の峠とかいうが、坂とはうまくいったもので、登ろうと思えばどうにか登りはするものの、息は切れるし、耳は鳴りだす。
下れば下ったで膝はがくがくするし咽喉はかれる。登るも下るも、してできないことはないが、くたびれるのである。
墓参をして、疲れて、そのあと食事の仕度、風呂の仕度に人手をわずらわしているのでは、何がご供養だかわからないことになる。
かといっておまいりをしないのもおちつかない。
(一九六五年 六十一歳)

幸田文 台所帖
幸田 文 (著) , 青木 玉 (編集)
平凡社 (2009/3/5)
P137

 

 

DSC_9706 (Small).JPG平山温泉 湯の蔵

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文を以て友を会し、友を以て仁を輔く [対人関係]

二四 曽子曰わく、君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔( たす )く。


~中略~


曽先生がいわれた。
「 君子は学問によって友だちを集め、友だちの交わりによって仁徳の完成を助けとする 」
顔淵篇


                  論語

           孔子 ( 著 ), 貝塚 茂樹

                       中央公論新社 (1973/07)

                       P349

台湾DSCF0002 (40).JPG

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日本人排斥 [国際社会]

中国人という商品が安いがために白人の労働市場を攪乱し、このため一八八二年(明治一五)中国人移民禁止法ができた。
ついで、日本人という商品が安いために排斥をくらった。さらには日本人が、事もあろうに農業、商業の経営者に転換したために、商売がたきの同業者から排斥された。
 一九〇一年(明治三四)、中国人についての移民禁止の法を日本人にも適用せよ、ということをカリフォルニア州議会が決議し、連邦議会に働きかけた。
 当時、サンフランシスコの市長はシュミッツ(Schmitz)という人物で、公人でありながら日本人排斥同盟の重要なメンバーになった。この同盟の主要構成員は、むろん各種労働組合で、この点、アメリカにおける日系人へのいじめ史は、からりと乾いている。問題は、カネなのである。

アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)
P99

DSC_3950 (Small).JPG関門海峡人道入口


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自覚が大切 [養生]

 思うに、中高年登山者の厄介なところは、自分自身の体力の衰えを自覚していない点にあります。
山の会や仲よしグループによる山行、ツアー登山などは同世代の仲間と出かけることが多く、若い人たちと一緒に歩いたり登ったりする機会はめったにありません。
そのため、どうしても同世代間の比較となり、「俺はけっこう強いな」とか「私はまだまだ、負けてないわよ」とか思ったりして、体力の衰えを実感できていないのではないでしょうか。
 気分は若いときのままでけっこうですが、体力の低下は本人が思っている以上に進んでいるのですよ。やっぱり自覚は大切です。
或るデータによれば、20歳を100%とした場合、敏捷性は50歳で80%、60歳で70%と意外と低下していないもの。ところが、脚力や持久力になると、50歳で60%、60歳で50%程度ですから、若いときのほぼ半分とないいています。平衡性に関してはさらに低下が著しく、50歳で40%、60歳で30%くらいになってしまいます。

 

登山力アップの強化書
徳永 哲哉 (著)
西日本新聞社 (2017/6/19)
P018

 石鎚山

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登山力アップの強化書 (のぼろBOOKS)

登山力アップの強化書 (のぼろBOOKS)

  • 作者: 徳永 哲哉
  • 出版社/メーカー: 西日本新聞社
  • 発売日: 2017/06/19
  • メディア: 単行本

タグ:徳永 哲哉
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ヤルタ [雑学]

 ヤルタは、黒海に対して北からぶらさがっているクリミア半島の沿岸にある。この地はかつてモンゴル帝国の一部分であったクリム汗の遊牧国家の領域であったことを思いだす必要がある。日本でいえば、江戸時代のある時期までである。
 ロシアの自立は、その領域いっぱいに居た遊牧民族を気ながに征服してゆくで確かなものになって行ったが、一七八三年、やっとクリム汗国をほろぼし、クリミア半島をふくめた黒海北岸の草原(紀元前八世紀、遊牧文明を最初に興したスキタイ人の故地)をロシア領にしてしまった。
信じがたいことだが、遠いシベリアのブリヤート・モンゴルのロシア領であることが確定するのが一六八九年のネルチンスク条約によるものであるとすれば、ロシアの足もとであるウクライナ圏内のごく手近なクリミアの地の征服が、それよりずっと―百年も―遅れたことになる。
 かつてクリム汗の遊牧地だったヤルタは半島南岸の港市で、気温が温暖なだけでなく、背後に山をめぐらし、前面に黒海の水を見、近くに帝政以来、国家の力の象徴ともいうべきセヴァズトーポリの要塞がある。ふるくから保養地として栄え、ソ連になってからも、この町の性格はかわらない。
 第二次世界大戦中の一九四五年(昭和二十年)の初頭といえば、その前々年にイタリアが降伏し、前年にパリが連合軍の手で回復され、ドイツ軍は各地で撤退していて、戦いの峠は越えきっていたころである。この一月、ソ連軍は、弱体化したドイツ軍に対し、大規模な冬期攻勢を開始した。
 二月、連合軍主要国家の首脳が、ソ連要人の保養地であるヤルタにあつまった。ヤルタ付近のリヴァディアの保養地を会場として、四日から十一日まで、戦争遂行の最後的段階の方針と、戦後処理についての会談がひらかれた。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P236

DSC_4204 (Small).JPG手向山公園


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重信川 [雑学]

 豊臣時代までは、伊予第一の川といううことで、伊予川とよばれていた。重信というのは、改修者の名である。日本の河川で人名がついているのは、この川だけではないか。
 秀吉の子飼いの大名には土木家が多かった。城普請の藤堂高虎、石畳と灌漑土木の加藤清正が有名だが、加藤嘉明(よしあき)や福島正信さえ、凡庸でなかった。~中略~
 当時、土木は国土経営の核心のようなもので、同時に土木感覚は武略の感覚とも表裏していた。秀吉政権における武断派とよばれたかれらが、関ヶ原まで家康方につき(というより家康に操作され)、文吏派であった石田三成と戦ってこれを滅ぼしたことは、周知のことである。
 関ヶ原以前、伊予で六万石の身代でしかなかった加藤嘉明(後年、会津に転封させられる)は二十万石に加増され、関ヶ原から三年後に家康に乞い、道後平野に新城と新城下町を築くことを許可される。今の松山城(勝山城)と松山旧市街がそれだが、この加藤嘉明以前の松山付近というのは一望の田畑と葦(あし)の野で、めだつほどの集落もなかった。
~中略~
 松山城とその城下町をつくった加藤嘉明も、似たようなことをした。旧城の松前(正木)城下におたたという魚を行商する女がいて、陽気で頭がよく、唄がうまかった。
 「おたたよ、一つたのむ」
 と、どうやら嘉明自身が、この行商の女に地元をにぎわすことを頼んだらしい。
この時代には奴隷労働がなく、賃銀(米で支払う)労働であった。かつて秀吉がやった大坂城造営も、賃金労働であった。それでも、農事以外の労役農民はきらったから、施工主としては地元を普請にむかって祭気分で沸かさねばならなかった。奈良・平安初期なら行基や空海のような大衆に人気のある僧がそのことをやったが、戦国・豊臣期をへた社会は、その種の神秘人格を昔ほどには信じなくなっていた。
 その代わりとして、おたたのような人気女が登場する。 ~中略~
 嘉明の夫人をお萬といった。お萬はみずから炊出しをし、おたたらの一行に握飯をくばったという。
 この間、重信川の名のもとになった足立重信という普請奉行が、みごとな普請指揮をした。
 かれは山上の城に多数の瓦を運ぶのに、運搬のひとびとがいちいち一人ずつ山坂を登るという無駄をはぶき、麓から山上まで近郷の農民を一列にして長大な人垣をつくらせ、手から手へ瓦を渡させて一日のうちに所要の瓦のすべてを片づけ、嘉明をおどろかせた。
 それまで伊予川はしばしば氾濫した。重信は嘉明から命ぜられて堤をきずき、水の勢いを殺いだり、流れを変えたりして、みごとに治水した。
 重信は、通称を半助、のち半右衛門とあらためた。地元が自然に名づけるとすれば半助川とでもよんだろうが、わざわざ諱(いみな)を河川の名にしたというのは、嘉明自身の命によるものといっていい。領内の重要な河川に家臣の名をつけるなど、よほどのことであったろうと思われる。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
 P26

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伊予松山藩 [雑学]

伊予松山藩十五万石の久松家は家康の異兄弟の家系で、徳川の親藩であった。最初は家中に三河派などもいて武張った風もあったかもしれないが、次第に伊予ぶりになり、江戸後期からは俳諧がさかんになって、たとえば武事や政論を好む土佐藩などとは別の知的風土を形成した。
 この藩は、幕末から維新にかけての変動期に、ひどいめに遭った。
 幕府が長州征伐をおこしたとき、ほとんどの藩は理由をかまえて参加しなかったが、松山藩は律儀にもばく大な軍費を捻出して参戦し、負けてしまった上に、その律儀がたたり、戊辰のときには会津・桑名の両藩とならんで「朝敵」にされた。
会津藩は幕末の京都で長州勢力と対決したが、伊予松山藩はなにもしていない。鳥羽伏見のときにも会津・桑名は松山を疎外し、最先鋒に出さず、はるかに後方の摂津梅田村(いまの大阪駅付近)に置き、後方警備をさせた。
 それでも「朝敵」として討伐軍をさしむけられた。「官軍」の土佐藩兵がやってきて松山城を包囲したが、この藩は戦わずに恭順した。そこで土佐藩は松山城を受領し、城下や領内に対して占領政治を布いた。戊辰でこの種の屈辱をうけた藩として、会津藩、越後長岡藩があり、それに伊予松山藩があるが、松山の場合、前記二藩とちがい、いっさい抵抗しなかった。
~中略~
 こういうことが伊予松山人にとって、激発や怨恨のたねにならなかったというのは、ふしぎなほどである。伊予は南海道のなかでも気候がよく、地味も肥え、古くから瀬戸内海文化が沈殿して人間の精神も単純でない。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
P12

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真理は単純だが、事実は複雑 [哲学]

科学上の理論は、しばしば美しいとされる。「真理は単純で、単純なものは美しい」。
よくそう言われる。ただし私はたえず反論する。真理は単純で美しいかもしれないけれど、事実は複雑ですよ、と。

遺言。
養老 孟司 (著)
新潮社 (2017/11/16)
P111

DSC_4743 (Small).JPG企救自然歩道


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 [言葉]

 沢は谷と呼ぶこともあります。水流があるかないかは関係ありません。地形的見て両側を尾根で挟まれた溝が沢であり、谷であるわけですよ。
ついでながら、沢の右岸、左岸というときは、必ず山頂側から見て右、左という決りがあることも覚えておきましょう。

~中略~
コル、峠は鞍部と同じです。スガモリ越とか大戸越とかの越(ごえ、こし)も鞍部を指します。私的には、コルは鞍部よりもさらに立っている地形をイメージしていますが、ピークとピークに挟まれた最も低い場所であることに変わりはありません。
~中略~
カヤトというのは、本来茅(かや)が茂った場所という意味だったと思われますが、今ではピーク、なだらかな斜面、尾根などの草地を指すケースが多く、茅が茂っているかどうかは関係ないと考えていいでしょう。そういえば、草つきの頂を「カヤトのピーク」と呼ぶこともありますね。

登山力アップの強化書
徳永 哲哉 (著)
西日本新聞社 (2017/6/19)
P084

DSC_9891 (Small).JPG大山 (鳥取県)
登山力アップの強化書 (のぼろBOOKS)

登山力アップの強化書 (のぼろBOOKS)

  • 作者: 徳永 哲哉
  • 出版社/メーカー: 西日本新聞社
  • 発売日: 2017/06/19
  • メディア: 単行本

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和によって亡ぶ [日本(人)]

人の意見は、一致しないのが普通である。
そこでその是非を互いに論じ合うのは、本来、公事のためのはずである。
ところがある者は自分の足らない所を隠し、その誤りを聞くのを嫌い、自分の意見に対してその是非を論ずる者があれば自分を恨んでいると思う。
これに対してある者は恨まれて私的な不和を生ずることを避け、また「相惜顔面」すなわち互いに相手の面子を潰しては気の毒だと思って、明らかに非であると知っても正さず、そのまま実施に移す者がいる。
一役人の小さな感情を害することをいやがって、たちまち万民の弊害を招く。これこそ、まさに亡国の政治である」と。

帝王学―「貞観政要」の読み方
山本 七平 (著)
日本経済新聞社 (2001/3/1)
P67

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